ちょっといっぷく 第96話
第96話 満州建国
世間では日本が日清日露以来特に満州事変以来、軍国主義的侵略にむかって一途に突進したように言う人がいるが、日本の事情はそれほど単純なものではなかった。
日清戦争時代に3千万人余りだった人口は、30年後6,000万に増加し、年に100万近い人口増加があり、この莫大な人口をどのようにして養うかが、日本国策の根底にあった。
列国の経済ブロック化や、関税を高くして日本からの輸入を押さえるなど国際的な圧迫のなかで、満州の経済活動によって自活を計ろうとしていたわが国は、満州から手を引くことは出来る相談ではない。
政治家は眼前の党利党略に追われ、国の前途を考える心もなく、根本的な国策も打ち出せないとき、国防をになう軍部が独走するのは当然だという意見もあったのである。
満州事変の翌7年1月、第1次上海事変がおこる。余談になるが、有名な爆弾三勇士はこの折、廟行鎮の戦いのときであった。
破壊筒をかかえて敵の鉄上網を突破した三勇士は日本全国で美談となり、歌になった。
「廟行鎮の敵の陣/われの友隊すでに攻む…」我々年代の人間は、この歌はよく歌ったものだ。この作詞者は歌人・与謝野鉄幹である。実はその妻・与謝野晶子もまた三勇士に感激した1人でもあった。
三勇士の行動に心を動かされた彼女は、「優勝者となれ」と題する論文を書き「日本軍人の強さは世界一であるが、国民も職業や学問で軍人同様、勇敢に奮発せねばならない。殊に青年男女は爆弾三勇士の突撃のごとく大胆に生活意力を実現してほしい。勝つ者は軍人ばかりであってはならない。
国民が各自に優勝者たらんとする奮発が必要である。」と説いた。さらに『日本女性』紙上で「日本国民朝の歌」を発表している。「武人にあらぬは国民も…命を絶えず小刻みに、国に尽くすは変わりなし/たとえばわれのこの歌も、破壊筒をばだきながら、鉄条網にはしりより、なぐる心にかよへかし/無力の女われさへも、かくの如くに思うなり。いわんやすべて秀でたる、父祖の美風を継げる民」と国民に訴えた。
日露戦争中に「若死にたまうことなかれ」の歌を発表し、わが国の歴史教科書が反戦歌人のようにあつかっているあの歌人・与謝野晶子が、である。長年、中国の排日侮日に耐え抜いたあと、「暗雲をつらぬく稲妻のように起こった満州事変」に感奮した当時の日本人の国民感情がわかろうというものである。
一方、建国工作は着々と進められ、3月1日、満州国政府は建国宣言をし、九日仙頭亭溥儀が執政に就任した。
かつて溥儀は宣統帝として清国を治めていたが、革命が起きたために退位を余儀なくされる。その代わり、退位の条件として、紫禁城内に暮らすことが許され、また生活も保証されていた。ところが国民政府内部でクーデタが起きたので紫禁城から追い出されてしまった。彼の個人教師を務めていた英国人ジョンストンが「溥儀を保護してくれるのは日本公使館がもっといい」と勧めたので日本公使館に逃げ込んだ。このジョンストンはのちに『紫禁城の黄昏』という手記を書いた。この本によれば、当時の日本は列国から信頼されていたのである。
満州国はたしかに傀儡政権ではあったが、溥儀はただのお飾りではない。彼は彼なりに満州の地に自民族の国家を作りたかったのである。東京裁判では溥儀は満州国建国の意思はなく、日本軍に命じられて否応なく皇帝になったと証言した。これは真っ赤なうそである。そのように証言しないと殺すと脅かされたからに違いない。(敗戦後、ソ連に囚われていた)。
溥儀が父祖の地である満州にもどり、皇帝になりたがっていたことは、『紫禁城の黄昏』に動かしがたい証拠がある。
ともあれ、満州事変に関する現地調査委員会としてリットンを委員長とする5人が選定された。このリットン委員会の調査活動中、9月15日、日本と満州国との間に日満議定書が調印され、日本は満州国を承認した。
昭和8年2月、国際連盟総会はリットン報告書にもとづき、満州国の主権は支那に属すとなし、日本軍の付属地内への撤収を勧告した。
すでに満州国は成立し、発展しつつあった。日本はついに国際連盟脱退へとむかう。
この年同月、熱河作戦が発動され、5月に終了し、満州、内蒙古の国民党勢力を完全に駆逐し、国民党側と塘沽停戦協定がむすばれ、一切の軍事行動が終了している。つまり昭和8年5月塘沽停戦協定から、昭和12年7月虜溝橋事件までの4年2ヶ月の間、日満と中国国民党政府の間には一切の戦闘行為が行われていない。この期間の安定は、今日、さまざまな可能性を示唆する。すなわち虜溝橋事件以降の支那事変に日本がのめり込んでいかなければ、満州国は強固な国家として自立しえたのではないか。
最後に、文芸春秋10月号に記載された福田和也氏の寄稿文を引用する。
満州国は、たしかに実態はほぼ日本の傀儡政権だったし、「王道楽土」とはいいながら非道な施策も少なくなかった。けれども、アメリカだってはじめは、ピューリタンが先住民を殺し、土地を奪うところからはじまって、ああいう国ができたのだ。
満州国は、日本の敗戦によって崩壊してしまった。だからといってすべては、無駄であったのだろうか。満州国の建設は、日本人にとっても稀有な体験だったし、アジアにも、世界にも恩恵をもたらした。
一つの国をまるごと作るなんていう経験は、日本人にとってははじめてのことだった。そのおおきな課題と、懸命に日本人は取り組んだ。満州国の首都となった新京(現長春)の都市としての威容は、今もほぼ当時のまま残っている。パリよりも、ベルリンよりも壮大な都市を作ろうという意気込みのもとにつくられた。美しく大規模な都市だ。ここを見ると日本人には、雄大な計画は実行できないなどという通説は、虚偽だということがわかる。
一番目覚ましいのは、産業と経済だった。当時の日本経済のありようからして、日本は満州うぃてにしても、何も出来ずに放り出すのではないか、と欧米各国はみていた。ところが石原のブレーンである経済学者の宮崎正義や新官僚の代表格である岸信介は、満州をごく短期間のうちに、アジア屈指の工業国に変えてしまった。彼らは官民共同の下で、計画的に重点産業を育てていくという手法で成功したのだけれど、この手法はそのまま戦後日本に適用されて奇跡的な経済発展をもたらし、さらにアジア各国がそれを踏襲することで今日の隆盛を見るにいたった。つまり、満州国がなければ、今の豊かな日本もないし、アジア諸国の発展もないということになる。
ほかにも新幹線をはじめとして、満州国で生れ、戦後の日本で開花したものはたくさんある。歴史を顧るという時には、事件その物の性格だけではなくて、そこからどんな経験が得られ、我々の生き方にひろがりが持てるかというところまで想像してみる必要があると思う。
※参考文献=地ひらく・福田和也、大東亜戦争への道・中村粲、渡部昇一の昭和史・文芸春秋10月号
(前島原商工会議所会頭)
2003年12月30日