ちょっといっぷく 第61話
第61話 感涙の記録
文芸春秋発行『プロジェクトX リーダーたちの言葉』という本がある。
不可能を可能にした無名の男たちの感動の物語をNHKで報道、本にまとめたものである。これが大変な反響をよんでいるらしい。
その中の一遍、京都伏見工業高校ラクビー部・総監督山口良治の話が載っていた。
以下その抜粋である。
平成13年1月、第80回全国高校ラグビー大会の決勝戦は、どしゃ降りの雨の中での試合となった。
全国制覇を成し遂げたのは、京都市立伏見工業高校。3回目の偉業だった。
ノーサイドの笛が鳴っとき、スタンド最前列で人目もはばからずに❝また❞泣いていた。伏見工業の総監督・山口良治 58歳。
今や教育界の伝説となった泣き虫先生である。
27年前、山口良治が保健体育の教師として赴任した時、伏見工業高校の悪名は京都中に鳴り響いていた。
暴走行為によるバイクの事故は京都一。校内の廊下を走り回っていた。リーゼントヘアーに、サングラス、パンチパーマに剃り込みなどヤクザまがいの風体の生徒達が闊歩していた。カツアゲや障害事件は後をたたず、周囲の高校の生徒たちは通学路を大きく迂回し、伏見工業の生徒との接触を恐れた。
教師たちはさらに悲惨だった。ネクタイを捕まれ教室を引きずりまわされ、中には洋服に火をつけられた教師もいた。
昭和50年、春の京都府大会。伏見工業の相手はその前年に全国大会準優勝をとげた花園高校だった。
結果はなんと112対0の惨敗。
途中80対0になった時、山口の目に涙が溢れた。
「こんな情けない状況で子どもたちは今どんな気持ちなんだろう、メチャクチャやられて悔しいやろうな、歯がゆいやろな、情けない思いをしてるんやろなと思った時、俺は今までこいつらに何をしてやったんや!と初めて矢印が自分の方へ向いた。俺はなにもやってあげてない。偉そうにばっかりしていて、俺は日本代表の選手だった、俺は監督だ、俺は教師だと…。その自分に気づいた時に本当に、すまん、と思って…」山口の述懐である。
試合が終了したとき、山口は選手たちに声をかけた。
「お疲れさん。怪我はなかったか。悔しいやろ」
この言葉を受けて、突然地面に突っ伏して泣き出したのは小畑だった。ツッパリ部員が初めて見せる涙。他の選手も全員が悔し泣きした。
「あの小畑の泣き叫んだ声が、伏見工業ラグビーの産声だと思うんです」
そのあと、打倒花園を合い言葉に猛練習が始まった。
翌昭和51年春の府の大会、決勝戦で宿敵・花園と再び対決の日が来た。ツッパリの中のツッパリ・小畑道弘は、目の上を切り、鼻血を出しながら走り回り、中学時代❝月輪の荒木❞と呼ばれていた元番長・荒木邦彦も脚がつって倒れても起き上がって走り続けた。
こうして伏見工業は18対12で花園高校を倒し、京都一を勝ち取った。
山口良治は、数百人の教え子たち全員の名前をそらんじ、その一人一人と抱きしめるようにつきあい、それぞれの個性や素晴らしさをとめどなく語り続ける。共に食事をし、金がなければ生徒だけに飯を食わせ、空腹を耐え忍ぶ大男。山口はグラウンドにある日突然現れた❝父親❞であり、❝父性❞である。
若者たちは、挑戦の機会を与えれば、目標に向かって汗にまみれ、ひたむきに真正面から取り組んでいく『ポテンシャル(可能性・潜在力)』を持っている。
わが長崎県にも、この山口良治に比して負けず劣らずの父性をもった熱血教師がいることを忘れてはならない。
その人の名は『小嶺忠敏(長崎県国見高等学校校長・サッカー部総監督)』先生である。
(前島原商工会議所会頭)
2003年4月16日