ちょっといっぷく 第58話
第58話 荒城の月
昨年末の寒い日、二度目の黒川温泉へ家族旅行をしたついでに「荒城の月」で有名な岡城跡をたずねた。
勿論館はなく、石垣のみ残る廃城であるが白滝川に面してそそり立つ断崖絶壁の石垣で囲まれ真に天然の要塞という感じである。
特に幾何学的な石垣が実に美しい。
推定面積約73,270㎡、22,164坪まさに牛が臥せった形の城(別名臥牛城とよばれる)で天正14年(約400年前)から翌年の豊薩戦争では島津が3万700名の大軍で3回にわたって攻撃したが、ついに落ちなかった。難攻不落もむべなるかなと思う。
禄高7万3000石、島原とほぼ変わらない。この岡城の本丸跡に「荒城の月」の作曲者である滝廉太郎の銅像や詩碑が建てられている。
今回大分県竹田市の文化会館から沢山の資料を送っていただいた。
滝廉太郎の父は内務省の役人で、廉太郎は父の任地の都合で少年時代を竹田で過ごすことになる。
岡城は絶好の遊び場であり、四季に移ろう自然の中から音楽の天分をはぐくんだ。
「荒城の月」は、明治34年3月、廉太郎が東京音楽学校在籍中、当時第二高等学校(現東北大学)で教鞭をとっていた土井晩翠が作詞したものに滝廉太郎が作曲し、日本人の心にうったえる旋律をそえたのである。
以来、中学唱歌として歌い継がれ「日本の歌」の代表として、日本はもとより、アメリカ、ヨーロッパでも知られている。
ところで、平成11年に発表された学習指導要領の改訂に伴い、教科書にとりいれられる曲が出版社の自由選択となり、平成14年度から使用する教科書の中から「荒城の月」が消える可能性も出てきたのである。
‶なぜ、こんな立派な歌を”と思わずにはおれない。ほろびゆく敗者の歌だから、没落的な歌だからとでも言うのだろうか。
一度、錦織健の腹の底からひびきわたる「荒城の月」を聞いてみるがいい。
本当は日本人の心の琴線にふれる魂の歌なのである。
こういう良いものをなぜ守ろうとしないのだろうかと常日頃考えていた。
地元竹田市のみなさんの運動の成果がみのって、新しい教科書に継続採用されることになったと聞きご同慶に堪えない。
一、春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松枝わけいでし
むかしの光いまいずこ
四、天井影は替わらねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城のよわの月
この岡城跡訪問の帰路、日露戦争の軍人広瀬のお墓が竹田市にあることを発見した。竹田市の出身であることは、かすかに記憶にあったが今回確認できた。広瀬中佐のことはいずれ後日書く。
(前島原商工会議所会頭)
2003年3月25日