ちょっといっぷく 第4話
第4話 屈原とちまき
去る5月5日、高橋三徳大先輩から粽(ちまき)に添えて屈原「漁夫辞」(ぎょほのじ)と憂憤の愛国詩人の説明文を頂戴した。
「漁夫辞」は私には難解で、高橋さんの漢学についての素養について改めて敬服した次第である。
屈原は孔子の死後133年、秦の始皇帝が出現する122年前に楚の国で生まれた。
当時、中国は秦をはじめ楚、斉など七国によって割拠、強国秦の脅威に対し、国の運命を賭けて連衡(れんこう)と合従(がっしょう)の嵐が吹き荒れていた。
屈原は楚の懐王に仕えるが、秦側の謀略や王一族のざん言により2回も国を追われ漂泊の途につく。
流浪の逆境のなかで、生まれた詩句の集大成が詩経以来の大詩集といわれる後の「楚辞」である。
世は濁りてわれを知ることなく、心のたけを言う術(すべ)なし、屈原は王の不明をかなしみ、権臣の跋扈(ばっこ)に対してやる方なき憤りをその作品で吐露した。
「われは死して忠臣の範とならん」
屈原最後の作『懐沙』の最終行にでてくる一節であるが、懐沙(ふところに石をため)して汨羅(べきら)の水に身を投じて死んだ。
命日の5月5日は、毎年地域の人達が彼を哀悼して竹筒に米飯をつめて川に投じた。
ところが、あるとき屈原の霊が夢のなかに現れ「ふちに一尾の龍がいて、片ッ端から横取りする。龍を遠ざけるため栴檀(せんだん)の葉で筒口をふさいでほしい」と請うた。これが粽(ちまき)の起源である。(プレジデント社・男はいかに生くべきかより)
屈原死して2300年、いまだに中国の民衆のあいだに根を下ろしている。
わが国では、昭和11年の2・26事件、あのとき決起した純粋無垢の青年将校たちにその手段の当否は別として、屈原の思想は少なからず影響をあたえたことは間違いない。
昭和維新の歌
汨羅(べきら)の淵(ふち)に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば
義憤に燃えて血潮沸く
いま屈原ありて、日本の世情をみれば、おそらく卒倒するのではなかろうか。
(島原商工会議所会頭)
2000年(平成12年)6月22日