新春雑感1

◆天命に預け、命果てるまで

 

はじめに

 

1.歳について

昨年、ある会合で、私の小学校時代の恩師であった方のご令息(前島原市教育長)から「いくつになられましたか」と声をかけられた。「大正14年生まれです」と応えたら即座に「米寿ですね」と返ってきた。

「おォッー 俺もそんな歳か」と改めて己の歳をかみしめた。

昔、取引先のある人から、この節目節目の呼び方に檄文をいれ、額におさめた立派なものをいただいたことを思い出して、書棚の上にホコリをかぶって眠っていたものを引っ張りだして読み直してみた。

還暦からはじまって古希(70)、喜寿(77)、傘寿(80)、米寿(88)、卆寿(90)、白寿(99)、茶寿(108)と続いて最後は皇寿(111)と並んでいる。

過去をふりかえれば、一瞬の人生だったような気がするが、さて、この先どこまで行けるやら、俳人の山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」と詠んでいるが、この歳になると今から登る山は、芭蕉の「夢は枯野をかけ廻る」の世界であろう。

当今、80歳をこえても、意気盛んに活躍している人は多いが、作家の五木寛之は、月刊誌「致知」12月号のなかで「幸福論」について次のように語っている。

仏陀(お釈迦さま)は、2500年前、インドで80歳まで生きた。親鸞も今から800年もまえに90歳まで生きて非常に充実した仕事をした。だが、長く生きることだけが幸せではない。ちゃんと普通に暮らして、食事もして、身の回りのことも自分にできて、人とおしゃべりもして、それで長寿であれば最高だ。人間の平均寿命なんか関係ない。一人ひとりの天寿というものがある。自分の天寿を全うし、できれば天寿を超えて元気に生きられたらいうことないではないか、と。

思い出したのは、出光興産の創業者故出光佐三翁のことである。

この人も97歳まで生き、日本を風靡した偉人の一人である。詳しくはあとでふれるが、仙厓和尚の絵の収集家としても有名である。

毎年出光興産のカレンダーには、半世紀も前からこの仙厓さんの絵を複写し表装して配布している。そのなかに「双鶴図」というのがある。読んで字のごとく二羽の鶴を書いた絵であるが、一羽は下を向いて地上のなにかをついばみ、他の一羽は上をむいて天を仰いでいる。

讃に「鶴ハ千年 亀ハ万年 我れハ天年」とある。

禅宗の坊さんらしいことばだと思うが、命を天に預けた人は強い。命果つるまで余生を楽しみながら気力、体力の続く限り世のため、人のため働きたいと思う。

 

2.新聞の寄稿について

オリンピック選手は、なぜあれほど苛酷な練習に耐え得るのか、つまりはメダルをとるという確固たる目標があるからではないか。

目標があれば、急な坂やまわりみちをたどっても、あるいはころんでも起き上って大事をなしとげることができる。

だが、今の混沌の時代、その行く先や目標がさだまらずに迷っている人が多いのではないか。ダーウィンは、進化論のなかで「強いものが生き残れるわけではない。変化に対応できるものだけが生き残る」とある。

そうだろうとは思うが、具体的になにをどう変えたらよいのか、その答えにみんながあがき苦しんでいるのである。

要は一人の考えはたかがしれている。みんなが知恵を出し合い、切磋琢磨しあう風土をまず作る必要があろう。

作家の池井戸潤(多くの人たちがTBSのテレビの前に釘付けになったであろう『半沢直樹』あの「倍返しだ!」の原作者である)は、文章を書くときの心構えについて、読者がもとめていること、よろこんでもらえることを最優先にかくことが大切、顧客である読者がどういうことを考えているのか、想像しながら書けといっている。

なかなかサービス精神旺盛なお方だとお見受けするが、書く側からいわせると、これは実に難題である。

一介の市井人が、少しでも読者の役に立つものとなると、結局自分の体験談や実学のことしかない。それがはたして読者の参考になるか、読む側の受け取りかた次第というわけである。世の中には、90近くになって初めて見えてくるものもあるし、90近くにならないと見えないものもある。

曽野綾子女史のことば(絶望からの出発)「人間は自分のことは棚に上げないと何一つ言えなくなる」に背中をおされ、ウソでないかぎり自分のことを棚からひきずりおろして思い切って書くことにした。

 

島原新聞 平成25年元旦号に掲載

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