ちょっといっぷく 第93話

第93話 大東亜戦争への道 日露戦争(1)

「明治は遠くなりにけり」というが、たかが100年ちょっと前、即ちわれわれの年齢で見ると、オヤジ達世代であり、さほど遠い昔ではない。この場合、時間の経過をいっているのではなく明治時代の先人たちが示した「大目標のためには、潔く自分個人のことを捨てる『気概の人』が少なくなったことを、一種のあこがれをもって表現したことばであると解釈したほうが適切かもしれない。

繰り返しになるが、戦前の日本の行為がすべて正しかったというつもりは毛頭ない。しかし、日清・日露戦争から大東亜戦争まで、われわれのオヤジ達がやむに止まれなぬ事情があって戦争に踏み切ったことを、少なくとも日本だけは知っておく必要があろう。

三国干渉後、ロシアを始めとする列国の清に対するすさまじい侵奪が行われた。中国の史家・王芸生は論ずる。

「三国干渉は処置拙劣を極めたまま、まさに分割の禍を招来せんとし、しかもその後における世界幾多の悲劇はここに胚胎した。清延諸官は、三国の一言で遼東が返還されたのを見て、露国に対する迷信益々深まり、もしその援助があれば日本を恐れる必要もないし、他の列国もまた退却するだろうと考えた。

李鴻章が露国と密約を結んだので、満州問題の禍根が植え付けられ、さらに列強の激烈な角遂を引き起こし、北清事変、日露戦争より欧州大戦に至るまで、すべてこれから悲劇が始まった。(日支外交60年支)

三国干渉でロシアの援助に頼った浅慮を以後のアジア禍乱の第一原因であると論ずるもので、近代極東紛争史の背景と本質を見極めた卓抜な史論といえる。(中村 粲)

日露戦争の引き金ともなる義和団事件、北清事変ともいう。北京公使館区域が義和団によって包囲されたとき、英国から4回にわたる出兵要請、列国の希望と承認のもとに日本は軍を出して義和団・清兵の包囲から救出した。

この時の日本兵の働きや軍規の厳正さは世界から感謝され、やがて日英同盟へと進展していく。

ロシアは義和団鎮圧の口実で満州に軍隊を送りこれを占領、露清の間で満州還付協約が調印されたにも拘わらず履行されなかった。一方、遼東半島から日本を退去させながら自らこれを占領した。この二つの事実がなければ日露戦争は起きなかっただろうと、ロシアの蔵相ウィッテは回想記に書いている。

すでに満州全土はロシアのものとなった。このままでは、朝鮮が完全にロシアの支配下になる日も遠からずやってくるだろう。かくて日露戦争は始まった。そして日本は勝った。勝因についていくつか述べたい。

*日英同盟

前述したとおり、大英帝国が日本と同盟を結ぶに至ったのは、北清事変で日本軍が文明国の『模範生』としてこうどうしたことが大きい。アジアの小さな有色入種国家にすぎないと思われていた日本が、かくも規律正しく、勇敢に働いたことが評価され「同盟相手として信ずるに足りる国である」とされた。

日英同盟の成立は当時の外交常識では考えられないような条約である。

内容の要点は、清韓両国の独立を承認する。日英いずれかが第三国と戦ったときは厳正中立をまもり、他国が敵側に参戦するのを防ぐ。というもの。

この日英同盟こそ日本人に自信を与え、ロシアとの対決を支える陰の力となり、日露戦争でフランスの参戦を防ぐ役目を果たした。

*指導者たちの高度な外交センス

ロシアと日本の国力の差は、いかんともしがたい。長期戦ともなれば、国力に優るロシアが絶対有利である。ならば、少しでも日本が優勢になれば、ただちにロシアと講和を結び、少しでも有利な条件で戦争を終えるしかない。というのが指導者たちの結論であった。

講和条約の仲介は、中立的立場にあったアメリカに頼もうとなって、ルーズベルト大統領とハーバード大学の同窓であった金子堅太郎を特使として送ることになった。

考えてもみよ、戦争が始まる前から、和平のための特使を友好的な中立国に送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導こうとした明治政府の外交センスの高さは、刮目として評価されるべきであろう。「いつ、どのようにして戦争を終わらせるか」全く考えずに支那やアメリカを相手に戦争に突入した昭和の軍部を思うと天と地ほどの違いがある。

ーーつづくーー

(前島原商工会議所会頭)

2003年12月9日